コムスン問題をどう考える
コムスンの介護事業所の指定取得に関する不正問題が世間を賑わしている。
私たち障害者とその周辺の人間の間ではまだまだ毎日その話が出る。
私はコムスンの訪問介護・訪問リハビリをかつて利用しことがあり、今も訪問看護・訪問マッサージ、ガイドヘルパーを今も利用しており、これに対する私の見解を述べておきたいと思う。

訪問介護はかつて夜間の訪問を2ヶ月間利用したがこれは酷かった。
これに関してこの事業所で直接知っているのは、ヘルパーが3人、サービス提供責任者、統括の人間の5人である。
この全員がやる気がない。技術がない。誠意がないということで2ヶ月で契約を打ち切った。

ガイドヘルパーは同じコムスンの他の事業所から来てもらっているが、ここは何もいうことがない。楽しい人たちである。また一生懸命だ。

私が知っている限りでは、問題はこの特定の事業所であって、それ以外は問題がなかった。訪問看護は福岡市3カ所の所長が全員私の知り合いであるが、彼女らはとても気持ちの良い連中で性格もしっかりした人間で信じるに足る者たちである。

その上でコムスン批判をすれば、こういうことになる。

みんな頑張りなさい。真面目に努力しなさい。私たちは大切な仕事をしています。そしてどんどんお金を稼ぎなさい。そのお金は残らず本部によこしなさい。諸君には最低の賃金は払います。

これがコムスンの実態である。
つまり私が信用しているコムスンとは、全て個々の人間の良心がつなぎとめているものであって、コムスンという会社そのものは集金組織でしかない。そこに問題がある。

だからどんなにいい人たちがいてもコムスンから不正がなくなることはない。そう断言して良い。コムスン全体が改まることもない。

ただし、コムスンの不正をただすのは良いが、それでもコムスンが無ければ多くの場所で障害者やお年寄りの生活そのものが成立しないことを知っていてもらいたいし、そのことを第一に考えなければならないのだ。

そうなるとこの度の厚労省のやり方は間違っている。第一番に間違っているのはコムスンであるが、厚労省も無責任だ。僕は法律的にできるのかどうか知らないが、ここに至ってはコムスンを来年3月で廃業させ、その廃業したコムスンを国が指導という立場で人材を派遣して全てを立て直すことである。ニチイガッカンやツクイといつた全国チェーン店はいずれもコムスンと同じである。私が利用したこれらの組織は、要するに設け第一主義である。利用者、ヘルパー。事業所、みんなで共に生きようという姿勢がない。これらの経営は利用者を利用し、ヘルパーたちの犠牲の上に成立しているものだ。

これらにコムスンの経営を渡せば日本の介護の現状が良くなることなど100%ない。コムスンを別な組織として立派に立ち直らせる。そして介護事業とはこういうものだという見本を作る。それがベストである。国が民間事業に立ち入ってはと言う者もあろうが、役人たちが介護事業の無茶苦茶ぶりを実感するのが一番だ。国も一度自分達のやっている指導している福祉の実態を知ったがよい。あの無責任さは無知から来ている。

その上で新たな新規事業者に売り渡せば良い。

コムスンに直接の原因はあるが、国にも設け第一主義の介護事業を放ってきた責任がある。そして何より、そういう会社しか生き残れない介護業界にしてきた責任は全て国にある。国の方針を変更しない限りこの問題は根本から解決することはない。

皆さんに知っていてもらいたいことは、コムスンは私のところではつまらない事業所もあったが、他の事業所は問題がなかったし、それ以上に熱心な連中がたくさんいるといたということだ。そして何よりも、たとえおかしいところでも、他になかったらそこを利用するし、そうでなければ障害者の生活は成立しないという現実である。他の多くの家庭でも私と同じ立場の人たちがいっぱいいるということだ。

ゼロは何処まで行ってもゼロなのだ。たとえつまらないところでもなければ生きていけない。生きていくことが先決なのだ。健康な人たちは選択の自由がある。だが障害者には全ての自由があるわけではない。コムスンがいかに酷かったとしても、コムスンしかなければ、我らはコムスンと一緒に歩くしかない。

福祉はそういう現状なのである。一日も早くこの現状を改めて欲しい。みんな思っている。思っていても我々は現実の中で生きるしかない。

あー、神様、奇跡を起こして下さい。
私にその任を与えて下さい。
現状を変えることができる人がいない以上、
私が国会に立って声を上げるしかないのです。
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| 福祉・医療 | 15:38 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
「自立支援法」の問題に対する情報の提供と提案をお願い致します
今年4月から施行された「障害者自立支援法」。
5ヶ月が経過してやはり問題点が続出しているようです。
私の周りでも施設や在宅の身体障害者における問題点が明らかになっています。
負担額の大きさが障害者を圧迫し、
このまま負担が大きくなっていけば施設におられなくなったり、
自立生活が不可能になったりする利用者が続々と出てきかねない状況です。
「人はただ生きているただそれだけで尊い」。
そのことを障害者の姿を通して痛切に感じてきた私です。
だからこそ彼等がイキイキと生きて行くようにするには、
この「障害者自立支援法」を改めないといけないと考えております。
今の状況をそのままにしておいてはいけないんです。
これを避けるにはどうしたら良いのでしょうか。
どういう取り組みをしたら良いのでしょうか。
どういう取り組みが現実に行われているのでしょうか。

今までは私が今抱えている状況が山を越える来年の7月ですから、
それからは障害者の社会参加を自分の大きな課題として
取り組んでいこうと思っていたのです。
でも、「障害者自立支援法」をそのままにしておいては、
それ以前に障害者が外に出られない状況になりかねません
私も「障害者自立支援法」を改める運動に取り組みたいと思います。

教えて頂きたいのは、
(1)対象となる障害者といっても、
  視覚障害・聴覚障害・知的障害・身体障害などがあり、
  そしてそれぞれが在宅(在宅でも自立と家族同居に分かれる)や
  各種施設などで事情が違います。
  その、色々な状況の障害者にとって、
  今回の「障害者自立支援法」がどの様な問題が出てきているのか、
  どんな小さな事でも結構です、具体的問題を教えて下さい。

(2)この「障害者自立支援法」の改正運動をやっておられる
  個人・組織・団体の名前や住所などの連絡先を教えて下さい。
  特に私の住む福岡県であれば、もっと嬉しく思います。

(3)どの様に改正すべきかを教えて下さい。
  「障害者自立支援法」の方針や全体に対する考え、
  一つの問題点に対してだけでも結構ですので、
  解決法を持っていられる方。何でも教えて下さい。

連絡先:mugaku@muc.biglobe.ne.jp

あるホームページに乗せられた書き込みから

(1)ですが、
私の弟は先天性の重度脳性マヒで、今は施設に入って過ごしております。
両親の老齢化と自宅療養が困難であるからです。
が、
自立支援法のお蔭で、両親の籍から施設へ移動することになりました。
と言うのも、支援法で今までの食事代や介護代が増してしまい、
今まで支払っていた施設代のはるかに多い額が提示され、
両親の元からでは障害者年金を貰っていても、支払えないほどの増加だったのです・。
籍を移すことで、紙面上での保護は施設へ移行しました。
そうすることで毎月の支払額が2〜3万下がるのです。
それでも毎月の支払額は相当な額となりました・・。
施設に籍を置き、自立としてお世話になってはいますが、
全身の機能がない重度脳性マヒなので、24時間介護と言うわけで、
介護代が相当パンクしている現状です・・。
自立支援法が出来るまで、弟は1種1級でした。
今は1種2級です。なんだか腑に落ちません・・。

我が子は32条の医療減免をしていましたが、
自立支援法で支払額が倍になりました。
微々たるものですが、それでも薬を処方されるだけで今までの倍です。
これではいくらなんでも医療にかかることが億劫になってきます。
些細な額だと言われても、それでも塵も積もれば・・で
家計を圧迫してきます。

(2)はわかりませんが、調べて分かり次第書きますね。

(3)ですが、
病気や怪我の中途障害者、と、先天性の障害者とではかなり自立支援法の差が無く、
先天性の知的障害を持った児・者に関わる親には負担が相当ある気がします。
先天性の重度の身体障害児・者も同じく厳しい立場になってると思います。

今までの法律では、重度や先天性の障害児・者には医療やデイケア・施設での保護が当たり前で過ごしてきました。
中途障害者にはそれなりの労災や保険などの手当てがあり、
その後のリハビリにも適用される医療保護がありました。
区分するわけじゃないですけど、その人の状態や家庭での介護のあり方、家計などの細かい事情があるはずです。
しかし、自立支援法にはそんな細かい事情は全くお構いナシで、全ての障害児・者に通用されています。
その辺の懸念が、今ニュースでもやっていたように、介護が出来ないのに、家計を圧迫するデイケア・作業所・医療などでは十分じゃない・・と
家から出られない障害児・者を作ることになりかねない(なっている)・・。
表向きはバリアフリーだ、共存だ、障害者の権利だ、と言ってる割に、
政府のお粗末な障害者差別に思えて仕方ありません。
社会から追い出そうとしている法案に、まだ政治家のえらいさんには理解されてない部分が多すぎると思います。

障害の程度・家族構成・収入・支出・借金・近隣の手助けがあるなし等の細かい調書があってこそ、
法案を改正して活かせるように、きちんとやって欲しいなと思います。

<馬場>
なんで、行政はこういう人達を助けないのでしょうか。
政府の法律には余りに心がない。パソコンは何のためにあるのでしょう。
パソコンを使えば、それこそ障害の程度だけでなくもっと色々な個別の問題に即した細かい心の配られた福祉が出来ると思いませんか。(もっとも今の心ない役所がこれをすると個々の奥深くまで立ち入って税金や負担金の増加に繋がる恐れがありますが)
これが福祉かと思うと情けないですね。

《仙台の友人から》
さて、仙台での自立法・・・今週から各区役所で説明会が始まりましたが、
結局、障害区分も決まらず、細かいこともわからないまま
10月から施行です。
10月末に区分が決まるそうです。
とりあえず、今と同じだけの事は利用できるという<みなし支給>、
4月からすでに1割負担は来ているので、
<取るものは取る>ですね。

まだ議会を通過していませんが、激減緩和措置の案が出ています。
上限負担が、10月から翌年3月まで、四分の一、
      翌4月から翌々年3月、 二分の一、
      翌々年4月から次の3月、四分の三、
しかし、2年半後には、重い上限がすぐそこです。
そして、介護保険との統合・・・、
当然のように利用制限もでてくるでしょうね。
(10月からもありそうだけど)

自立支援給付と地域生活支援事業、それぞれに上限負担が分かれます。
身近な事では、居宅のヘルパー利用と、外出(通院以外)のヘルパー利用の
それぞれに利用負担上限があるという事です。
訪問入浴も今度は、支援法にはいりましたが、
居宅介護が属する自立支援給付ではなく、地域生活支援事業。
外出を減らしても、それぞれにかかってしまいます。
訪問入浴をやめて、ヘルパーさん達にお風呂をお願いしたほうが、
トータル的には、負担が楽かもしれません。

その一方で、重度訪問介護、重度障害者等包括支援というのもがありますが、
これも申請内容がはっきりせず、それを請け負う事業所が申請できない状況でもあります。
申請する事業所がなければ、利用はできません。
それにひそかに、重度障害者等包括支援の利用上限が、日中のヘルパー利用だけしか出来ない金額に低く設定されているという話です。
数字を聞いたら驚かれますよ。これで重度の方がひとりで自立出来るのでしょうかという数字です。
自立できる人だけが、”しなさい”なのかなしら。

それから、車イスなどを作った時に、
全額支払って、<後から9割戻る>という話も出ています。
入院の時には、医療費の償還だけでも大変なのに、
車イスまで、償還制になったら、これはキツイですね。

とりあえず、こちらの状況でした。(^o^)/

〈馬場〉
何たることでしょうか。
これでは障害者も障害者の家族も暗黒の時代へ突入ですね。
障害者自立支援支給法が暗黒の時代への案内人に見えてきます。
本来はそんなものを目指していなかったはずなのにどうしてこんな姿になってしまうのでしょう。
再び障害者は施設の中に放り込まれる時代の到来みたいに感じて暗澹たる気持ちになります。
いずれにしても、5年前と比べて少しは緩和されていた施設の選択。
これで施設入所が増えて、再び施設の入所は厳しい状況になかも知れませんね。
5年前、私は施設に入所するしかない状況に陥り、入所す施設を探していました。
でも入りたいと思った施設はどこにも空きがないのです。
飽いていたのが避難誘導通路もない違法建築(私は違反だと思う)の施設です。
それでも入るしかないんです。一度は入ることを覚悟しました。
この施設に一度入ってから、希望している施設が空くのを待とうと思ったのです。
ところが市役所が「それは出来ない。一度入所したら変更は出来ません」と言うのです。そのころまでは当該の市役所に施設の決定権があり、当人の希望で勝手に変更できなかったのです。
みなさん、障害者には自分の行き先を決定する権利も自由も制限されていたのです。
施設が少なすぎるのです。
ちなみに138万人の福岡市で身体障害者施設は2カ所だけなんですよ。
合計80名か90名くらいでしたかね。
それも既に満床です。これでショートステイのベッド数が幾つ取れると言うのでしょう。
障害者もその家族も休みをとるなんて夢の夢です。
かくいう私も八女にいた時にはショーステイで施設に入り、家族に休みを与えるなんてことができるなんて夢にも知らなかったです。役所関係の人間は誰も教えてくれなかった。
聞かなきゃ教えないのが役所です。
福祉はしてやるというものではないでしょう。
障害者を地域社会の中で共に生きる一員として迎え入れるは役所の義務です。
言葉とは裏腹に、「してやる福祉」が蔓延しています。
そういう体質が今回の「自立支援法」を生んだのです。
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| 福祉・医療 | 08:23 | - | - | pookmark |
ある施設にて
5年前の事です。
ある施設で食事を終えてゆっくりしていたら女性が近づいてきて僕に語りかけました。

ネー貴方は、施設を色々回っているらしいけど、いくつ回っても同じよ。
ここって決めて他を知らない方がいいわよ。
他を知ったら、どうしてもくらべるじゃない。
「ここは、あーだった。あそこは、こうだった」って。
結局は全て満足できる所なんてないのだから、他は知らない方がいいのよ。

僕は部屋に戻って考えてみました。
確かにそれは一つの考え方です。
僕が心からそうできるなら、そこに僕がこの施設で生きる道もあると思います。
でも僕にはそれは出来そうになかです。

その夜はその女性の声がいつまでも耳に残ってなかなか寝付かれなかった。
彼女の声には 声にならぬ深い絶望の叫びがあった。
「夢なんか持たないがいいのよ」という声が聞こえてくる
きっと彼女は何度も何度も大きな絶望を体験したに違いない。

でも、何故?
何故障害者というだけで、
そんな絶望感の末に辿り着いた気持ちで生きなくてはならないの?
それじゃ、施設って何?
施設って、そういう人に安らぎと生きる力を与える場所ではないのですか?
何故この女性にほんの小さな夢や希望を与えてくれないのですか?

ビヤガーデンも楽しかった。
カラオケでみんなが楽しそうに歌っているのを見て嬉しかった。
僕も音痴な都はるみを歌って楽しかった。
今度の夏祭りをみんな楽しみにしている。

でも、それでいいの? 
それが生きるって事?

施設さん、貴方は何者ですか?
神に代わる者ですか?
人間として生きることの喜びを奪って、希望を奪って何が療護施設ですか
あなたの苑に似あるのは与えられた楽しさ、作られた楽しさです。
演出です。そこに利用者の意志はあるのですか。

僕は馬場能久という一個の人間です
利用者という大勢の中の一員ではありません。

これは僕が体験したショートステイの中で最も苦しかった施設での出来事です。
勿論全てがこういうものが全てだとは考えておりませんし、言うつもりもありません。
アー、こんな素晴らしい運営をされていると感じた施設もありました。
ただ、感じたままを書いたものに過ぎませんが、
障害者がどういう場で生きているのか、皆さんにも一度考えて頂きたく昔の事を思い出しながら書きました。
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| 福祉・医療 | 00:15 | - | - | pookmark |
「障害者自立支援法」は再び三度自殺者を出す
 4月から順次実施されている障害者自立支援法、その実体が明らかになってきた。そういう話を聞く度に「やっぱりそうか!」とため息と、そして怒りとが沸く。一体これからそんな話を何度聞けば良いのだろうか。
 今までの5年の自立生活で、行政に障害者の「自立」を奨める気持ちがないことがはっきりと見える。勿論職員達は一生懸命やってくれる人達が殆どである。障害者の気持ちが分かっている人は希だが、自分なりには頑張っていてくれる。だが法律の範囲内であって法律を一歩たりとも出るものではない。その法律に問題があるのだ。望むらくはもっと障害者と気持ちを一つにして共に歩いて欲しいとは思う。その道は幾らでもあると思うのだが・・・。
 「行政は障害者の『自立』を奨める気持ちがない」という私の気持ちは抜きがたいものがある。僕は5年間の経験から行政の福祉では障害者には収入があってはならないと考えているのだと推察している。苦労して得た収入が負担金で消えていくのを見てもそれは覚悟していたことだったから諦めた。だが自立してから2年目の春に負担額が倍になり全額が負担金になると聞いた時、私は自立を諦めようとした貯金が底をつく前には自立生活をストップしようと決意した。だが幸いに支援費制度の成立で負担額倍増は消えた。そして今も何とか自立している。だが自立を諦めようとしたことこの一回でない。何度もある。
それまで訪問看護事業所が撤退し、次の訪問看護事業所が見つからなかった時もそうだった。軽度で手のかからない看護費用が入る利用者は引き受け手があるが、私みたいな手のかかる利用者は引き受け手がなかった。行政は手伝ってくれない。完全撤退の日が迫って「これまでか」と諦めた時に知り合いの看護婦さんが大手の訪問看護事業所の立ち上げを手伝うことになったのだ。まだまだ色々あるが今回はそれを語るのが目的ではない。
 
障害者自立支援法の悪弊が障害者を自殺に導く

 収入を得ることが困難な重度障害者は、自立なんてそんなものじゃない。自立どころか障害者自立支援法により逆に現在の生活すら維持できない状況に追いつめられているのだ。施設入所の重度障害者だって同じだ。彼等の多くが年金以外に収入がない。障害者自立支援法により大きくなった負担は5万円ほどのようだ。その為に、施設の支払いができなくなっている利用者がいる。彼等は近い将来施設を出ざるを得ない。行政はその様にならないように施設を指導するというが、実際は法律の裏付けも支援金の用意も何もない。それは「助けません」ということだ。意志は言葉ではない。具体的な形である。行動ほど意志を雄弁にかたるものはない。
 出ないで済んだ者だって残金は月に1〜2万円が多い。楽しかった買い物だってできなくなった者は多い。皆さん考えて欲しい。月に1〜2万円であなたは何が買えますか? 政府は障害者に与えた年金をどこに全てを回収しようと言うのか。
 在宅で自立している重度障害者もこの負担に耐へきれず自立を諦めねばならない瀬戸際の状況にある者が少なくないんです。しかも陰険なことに(陰険としか言いようがない)政府は生活保護の申請を抑制しようとしています。このままいけば、施設利用者は施設にもをられず、外に出て自立もできない者が続出します。在宅の自立者は自立を続けられないし、入所もできない重度障害者が急激に増へます。行政は施設から退所させられぬ者が出ないように施設を指導するというが、施設では既に内部で密かに経費を支払へぬ利用者の退所勧告者の選別が始まっているところすらある。それが現実です。施設が身銭を切って障害者を保護するでしょうか。もしそれをしてくれたとしてもそれが本当の福祉ですか。本末転倒です。
 政府と政治家は一人で生きていけない重度障害者にどこへ行けと言うのか。死なさず殺さずとは正にこのことである。このままでは必ず重度障害者や家族の中から自殺者が出てしまう。それが分かっていて何故政府は自らを改めないのか。自殺者が出たらその時の責任は全て政府にある。政府はその事にどう責任をとるつもりなのか。
 書くのもイヤになるが、行政が障害者とその家族の苦しみ・悲しみ・喜び、それらを共にしないでどうするのか。行政が障害者を手助せずして、行政が障害者が安心して生きて行くことのできる社会構造を創造せずして誰がそれをやるのか。

 障害者とその家族を絶望的状況に追ひやらうとしてゐるこの「障害者自立支援法」を直ちに中止してもらいたい。昨日天神で突然看護師に声をかけられた。「私は障害者のボランティアをやっているが、何かできませんか」と言うのである。私は上の現状を話し、「私が来年参議院に出るから、政治家になれたら死をかけてハンガーストライキをやるからそれを手伝ってくれ」と返答したら喜んでくれた。
見知らぬ彼に手伝ってくれと言うのは半分冗談だが、半分は本気だ。みんなが立ち上がらぬと成立した障害者自立支援法を撤回させるのは容易ではない。
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| 福祉・医療 | 21:08 | - | - | pookmark |
「障害者」から「障がい者」へ?
他者への敬愛無くして差蔑偏見はなくならない

昨年の産經新聞(平成17年6月17日)の産経抄である。

 うかつにも知らなかったが、「障害者」という言葉はイメージが悪いからと、言い換えを図る動きがじわじわ広がっている。「障がい者」と交ぜ書きにするのだ。いまも福岡市議会に障害者と名のつく施設や制度の名称を改める条例案が提出されていて、来週にも議決される見通しという 

 同市障がい保健福祉課(条例に先立ち改名済み)に聞くと、「害には悪い意味があるから改めたい。障がい者の問題に関心を持ってもらうきっかけにしたい」という説明だ。調べてみると、すでに札幌市や東京都の多摩市、町田市など複数の自治体が同様の趣旨で、部課名や文書の表記を変えていた

 福岡市によると、改名組はもはや三十自治体を超える。一理はある。もともと「障礙・障碍」と書いた。「さまたげ」という意味だ。当用漢字にはないからと、「障害」と書くようにしたことに無理があった。だが、再変更には異論を唱えたい

 言葉狩りのようなまねが障害者の自立支援や共生社会の実現にどれだけ役に立つのか。改名に伴う労力や費用の分だけ効果があるのか。そんな検証的な視点が欠けている。わかりやすく言えば看板を付け替える費用で、いくつ車いすを買えるか、道路の段差をなくせるか、ということだ。
 日本障害者協議会(東京)に尋ねてみると「所属する七十団体に改名の動きはない。本質的な話ではないし、自治体主導の変な流行という気がします」。こちらの話のほうが、素直にうなずける この手の話は、うっかりすると「ごもっとも」と思えるし、反対もしにくいが、変な流行にわけのわからぬ金を使う必要はない。自治体は少なくとも費用対効果を納税者に示す義務があるし、議会には雰囲気に流されない議論を望む。


そして昨日の信濃毎日新聞の記事

「障害者」→「障がい者」 県内で表記見直す動き

 県内の福祉関連団体や大学、自治体などで、「障害者」の表記を「障がい者」に変更する動きが広がっている。「害」の字には「悪くする」「損なう」といった意味もあるため、本人や家族が不快感を抱く恐れがあるとの理由からだ。研究者によると、かつて使っていた漢字が使えなくなったため「障害」の表記になったという。変更の動きに対し、「以前の表記に」「障壁がある社会の現実に目を向けることが先だ」との意見もある。

 松本大(松本市)は4月、観光ホスピタリティ学科新設に合わせ、大学紹介のパンフレットなどで「障がい」と表記し始めた。科目名の「障害者福祉論」は「障がい福祉」に変更。同学科の尻無浜(しりなしはま)博幸助教授=社会福祉学=は「『害』は、行政が障がい者の面倒をすべてみる−といったかつての発想の名残に思える。自立する人たちが増え、制度も変わってきた中で『害』を使うのは不適切と判断した」と説明する。

 運転免許を持つ身体障害者が1995年につくった「松本障害者運転協会」は2年ほど前、「松本障がい者運転協会」に団体名を変更。窪田隆一会長(77)=松本市=は「私たちは社会に害を与えているわけではない。他県での例を知り、問題に気付いた」と話す。

 信大教育学部(長野市)の山本清隆教授(日本語学)によると、かつては「害」ではなく、「妨げる」「隔てる」といった意味の「礙」「碍」が一般に使われていた。それが、戦後の政府による漢字制限で、音が同じで意味が近い「害」に置き換わった。

 「害」にも「妨げる」との意味はあるものの「悪くする」の意味合いが強いといい、同教授は「変えるなら、平仮名よりかつての表記に戻すべきだ」と主張する。

 一方、松本市障害者自立支援センター(ぴあねっと21)の降幡和彦所長(44)は「言葉を変えるよりも、『障害』は、街や社会の仕組みに壁があるという意味だと分かってもらう方が先」との考え方だ。

 昨年8月以降、公文書や広報誌などの表記を「障がい」に変更した上伊那郡箕輪町は今月、16の条例でも表記を平仮名に変えた。町保健福祉課は「差別や偏見をなくすための第一歩」とするが、「言葉狩りだ」「わざとらしい」といった批判も寄せられたという。

 長野市社会福祉協議会のボランティアセンターは、情報誌「ボランティアかわらばん」の4月号から、全8ページのうち募集やお知らせなどを掲載する後半3ページに限り「障がい者」の表記にした。他の欄は取材者や投稿者の考えに任せるという。編集委員の一人、戸田千登美さんは「いろいろな考えがあり、迷いもある。これから議論を深めていきたい」と話している。


 さて、障害者を障がい者と呼ぶ事が、本当に「差別や偏見をなくすための第一歩」になるのだろうか。報道機関では「部落」を始めとして、規制されている差別用語がいくつもあるらしい。それらの言葉は世の中から消されたり、別な言葉に変更されたが、ではそれが「差別や偏見をなくすための第1歩」となって、その結果「差別や偏見をなくすための第2歩」が開かれたのだろうか。
 「部落」は本来、集落の構成単位の一つであり、差別用語などではない。「差別」という言葉も本来は個々の違いを表現する言葉である。今使われている「差別」は差別による蔑視のことで、私はこれを「差蔑」と言っている。(以下差による蔑視は「差別」ではなく全て「差蔑」を用いる)。部落という用語そのものには差蔑はないのに「部落」という用語はこの世から消された。それでも差蔑はなくならない。部落解放同盟などは、「無くならないのは国民の心から差別意識がなくならないからだ」と、益々圧力を加え、圧力を加えられた公共機関は更に人権教育の必要性を叫び、またまた新たな言葉が作られていく。まるで中国共産党の政治局委員みたいなもので、これではイデオロギー国家の洗脳教育と同じである。そこに人間の真実はない。
 「言葉狩り」をしたり、「差蔑」だけで我が国の全ての歴史を否定したり、先人の魂を冒涜したりして、勝手で邪な教育を行うような社会から、真実の人間関係が生まれようはずはなく、況わんや最も人間関係の美点たる敬愛関係が結ばれよう筈がない。人間と人間が敬愛で結ばれる関係こそ真の人間社会である。だが、今日の同和教育・人権教育の出発点は部落解放運動であって、どんなに理屈を言っても、我々の年代が見てきた部落解放同盟の運動は「恨み」「辛み」が原点であり、「憎しみ」を基本としていた。かつての部落解放同盟が権力を糾弾した時の罵詈雑言を思い出すがよい。「憎しみ」や「怒り」以外の何者でもあるまい。私は人の怒りや憎しみを全て否定はしない。そこに人間の真実があるのも事実であると思う。そうでなく、「怒り」や「憎しみ」だけで人間を全て規定してはいけない。人間の人間たる所以は怒りや憎しみにあるのではなく、「敬愛」即ち「尊敬」と「愛」にあると言いたいのである。「怒り」や「憎しみ」を基本とするならそこには何者も生まれない。唾棄すべき人間の醜さが残るだけである。「怒り」や「憎しみ」を出発点とする現在の同和教育・人権教育から敬愛の心が生まれよう筈がない。他者への敬愛無くして差蔑偏見はなくならない。

 私は、松本市障害者自立支援センター(ぴあねっと21)の降幡和彦所長(44)が言う、「言葉を変えるよりも、『障害』は、街や社会の仕組みに壁があるという意味だと分かってもらう方が先」との考え方に賛成だ。聞くところによると、明治の水平運動時代には、「名称によって吾々が解放せられるものではない」という考えがあったと聞く。私は車イスで暮らす障害者であるが、私は人々に差蔑のあることを指摘し、それを是正せよと要求するのではなく、「障害者が健常者と共に暮らせる社会の建設」を最大の基本として考えて欲しいと思う。そして、その為に最も大切な事に先ず取り組んでもらいたい。障害者が健常者と共に暮らす為には、今の社会には様々な障害がある。在り過ぎる。ほんのちょっとした心配りで解消できる障害は余りに多い。

 「障害者」を「障がい者」とする小さな努力よりも、その前にもっともっとやるべき根本のものがある。小さな一歩も大切だが、根本がなければ道は永遠に開かれない。先ず、障害者がそこにいることを当たり前の事と考え、気にもしない社会にすることを目指すべきである。言っておくが、子供がジロジロと見るのは当たり前である。「このおじちゃんはどげんしてあると?」と見る子供はよくいる。その興味津々の目には邪な気持ちはない。それは否定する必要など無い。というか、その興味津々の気持ちがなければ何も始まらない。そうではなく、そんなこと気にせず子供達の前に障害者がどんどん出てもらいたいのである。障害者の前に立ち塞がるのは外にだけあるのではない。障害者自身の心の中にも「出たくない」という心がある。「もたどこかに行っとる」と言われる私の中にも未だに、「人と違う自分の身体を見せたくない」という心がどこかにある。そういう障害者の心を励まし、鍛錬し、また外部にある障害を一日も早く、一つでも多く取り除いてもらいたい。その努力をもっと真剣にやって頂きたい。
 障害者の社会参加をもっと進めて欲しい。「障害者」を「障がい者」とする小さな小さな思いやりと努力より先に、障害者がもっと健常者と共に暮らせる社会作りに努力してもらいたい。「障がい者」の造語くらいで満足してもらっては困るのである。そんなことは後回しで少しも構わない。それでいいのである。急ぐ必要はない。急ぐべき事はもっと沢山ある。言葉をいじりすぎるのは非常に危険である。言葉狩りが始まるからだ。言葉狩りは予防処置である。予防教育は洗脳教育と同じで危険この上ない。上の新聞記事にも、「『害』の字には『悪くする』『損なう』といった意味もあるため、本人や家族が不快感を抱く恐れがある」とある。予防運動、予防教育は必ず行き過ぎる。それがやがて洗脳教育となる。既にそれは同和教育で十分実施されている。人間と人間の関係は五分と五分であるべきだ。部落解放のような逆差別はいけない。洗脳教育は独裁社会への階段である。イデオロギー社会への入り口である。多数者が多数者の論理で少数者を縛るのも間違いなら、少数者が少数者の論理で全体を縛るのも間違いである。
 そうでなく、社会にある障害をなくし、外に出る力のある障害者をどんどん外に出してもらいたい。そうすれば市民は真実を知る。私は障害者が側にいる社会の中で本当の人間社会についてみんなが考えてもらいたいと思う。そうすれば、そこで自ずから頭の中だけれではない本物の「万人平等」の真実が明らかになると考える。
 
 「一切の人間が道の前に平等である」は私の信念である。当然、万人が共に暮らせる社会であるべきだと思っている。だが、言葉だけの平等は空しい。私は自分が「障がい者」と呼ばれるよりも、食堂の主人が店の前にスロープを造ってくれる心配りがもっともっと涙が出るくらいに有り難く嬉しい。さりげない思いやりのある、人と人が共に敬愛できる社会であってもらいたい。僕らは障がい者だもの、一生不便はつきまとう。それは仕方ないことなのだ。だが、ちょっとした心配りがあれば、障害者の前に障害者が健常者と共に生きて行ける道が開けることが沢山ある。人と人との間に違いはあつていい。あるのが当然である。障害者の中には「障害は個性だ」という位に心の強い人もいる。そういう強さを障害者も公共機関も持って欲しい。

 「障がい者の問題に関心を持ってもらうきっかけにしたい」という小さな親切よりも、まず自分達の現実を省みて欲しい。やっている事を顧みてもらいたい。やるべき事が山のようにあるじゃないか。その中の最も大事なものに取り組んで欲しい。その最も大事なものに取りかからず、目先の小さな事に拘り、「障害者」を「障がい者」に変更したところで、次の一歩は出てこない。障害者の自立、障害者の社会参加の為に自分が今何をすべきか。そを考えてもらいたい。「障害者」→「障がい者」という程度の発想からは、障害者の自立、障害者の社会参加を計る強さは生まれない。人間が人間である所以は「敬愛」にある。私達が目指すべき真の人間社会は「敬愛」に立脚する社会である。
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