東亜同文書院の「立街卜痢廚砲弔い
かつて上海にあって、支那を西洋列強の毒牙より保全し、支那の再興を計り、以て東亜の解放を目指した東亜同文書院。この書院には「立街卜痢廚ありました。「山洲根津先生傳」を読んでいたら以下の記事がありました。これが「立街卜痢廚料簡犬どうか解りません。ご存知の方がいられたら教えて下さい。

また以下に掲載した記事は全て私が書き写したものです。自分で自分の書いた文章の誤りを正すのは中々困難です。どなたか校正をしてもらえませんか。原文の画像は近日中に添付します。

また私の漢文の能力では全文を日本語に訳することに自信がありません。漢文のできる方がおられましたら日訳をご協力戴けませんか。自分ができなくても彼なら漢文ができるという方をご存知でしたら紹介して下さい。そうして戴けると真に助かります。



東亜同文書院「立街卜痢
−「山洲根津先生傳」− 88頁


叉其の立街卜里貌く、

徳橿經。據聖經賢傳而施之。智育爲緯。特授中國學生以日本言語文章。泰西百科實用之學。日本學生。以中英言語文章。及中外制度律令商工務之要。所期在乎各自通達強立。成國家有用之士。當世必需之才。

國家有用之士。要明至誠報國之大義。通利用厚生之實務。當世必需之才。要審四海萬邦之形勢。諳救世濟時之術策。二者一而不二。二而不一。是本書院之所以徳橿經智育爲緯。以組織立廓傾北槎蕁3枯糸柑融辧8点萓燦所以修身齊家平天下之法也。傳所謂本諸身徴諸庶民。百世以俟聖人而不惑者。實存乎此矣。徳廓桂棔F師槐係察G得而加焉。然自西學之入我邦也。學者往往束之高閣。而不復講。有識之士。深以爲憾焉。故本書院。首設經學之科。講明先聖先儒之大道。以爲窮理正心修己治人之本。所要於中國。莫切於文明利器。所闕於華人。莫甚於泰西科學。夫唯泰西科學有闕。是以文明利器不備。夫唯文明不備。是以富國強兵之事不就緒。乃知泰西科學之攻修。爲中國學生所尤宜致心力者也。退而思之。泰西列國。其於科學也。各有短長精麤。苟欲就其長而取其精。宜先曉各國之言語辭文。是豈可勉強於期月之間而得者乎。我邦修西學。三四十年矣。始者取諸荷。其次取諸英與美。叉其次取於法於徳於伊。然専乎彼者。必遺乎此。精於一者。必麤于二。戞々乎其難哉。今則學者概諳列國之言文。聽於其人。觀於其書。就其長者而究之。擢其精者而萃之。垂諸文。以爲後進階梯。而我邦之科學。幾乎大成矣。夫華之與我。幸有同文之惠。華人之學我言辭。與泰西言辭孰難孰易。不較而明矣。今授中國學生以我言語文章。使得師我人。由我書。以學日用百科。則列國之言文不待學。列國之長短不待較。泰西科學之精華。其如指諸掌歟。且夫中日之輯協。中國之凸蕁F本之文事武備。中國之模範也。中國之資於我。而補於彼者極大矣。華人之不得於彼。而有待於我者極多矣。觀光之行。負笈之遊。將共年益進矣。凡華人所須要於我言語文辭者。指不勝屈。本書院以日本言文。加乎實用百科之上者。以此故也。

日本學生。概取諸中學既成之後。故所闕如於此輩。不在乎泰西科學。而在乎中國時務。不在乎歐美之典章文物。而在乎中國之情形民物之動静。顧兩國士民之相阻隔也久矣。彼我相視。殆如秦越肥瘠。今也。東亞時局之危急已(己?)如彼。中日輯協之緊要已(己?)如彼。先覚先憂之志士。依唇齒輔車之義。倡曲突徒薪之説。叉已(己?)如彼。而兩國輿論未定也。衆心未警也。姑息之眠偸安之夢未覚也。所以然者何哉。無他。審中日之情僞東亞之形勢者。寥乎未遍於府縣是己。故本書院之徴學生。博求於各府各縣。而不偏於一方一局。且謀於各府縣。而致公費留學生。待其學業成就。散之於兩國之官郷。一以助經國利民之業。一以講善隣修睦之道。則庶幾兩國之形勢情僞。由是漸通。彼我輯協之端。由是漸開。所謂政治商工之協同。亦由是漸進。而中國富強之基礎。逐就其緒矣。然則爲本書院之學生者。宜爲中日輯協之媒介。爲中國富強之鼓吹。爲東亞經綸之木鐸者也。故本書院。特課此輩以中國言語文章。制度律令商工務之要。以期其精通於中國之情形。當世之要務。若夫泰西理財工藝邦交之術。及各國言語文辭之學。凡有益於東亞時局者。當博求精擇而授之。以補其不逮也。

 本書院立廓傾卜燐蘿〆 切望學者由是而辨至誠報國之大義。識利用厚生之實務。通四海萬邦之形勢。暁救世濟時之術策。以成國家有用之材。當世必需之才。豈不懿哉。


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根津一写真集(4)
ハスクル路に於ける東亜同文書院假校舎 −「山洲根津先生傳」−

ハスクル路に於ける東亜同文書院假校舎



桂墅里時代之同文書院寄宿舎
 −「山洲根津先生傳」−
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桂墅里時代之同文書院寄宿舎



第2革命兵燹後之校舎 −「山洲根津先生傳」−
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第2革命兵燹後之校舎
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根津一写真集(3)
令夫人根津榮子刀自並に故根津眞氏
 −「山洲根津先生傳」−

令夫人根津榮子刀自並に故根津眞氏「山洲根津先生傳」



第二革命後(大正2年11月)北京・根津先生と在北京同窓生
 −「山洲根津先生傳」−
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第二革命後(大正2年11月)北京・根津先生と在北京同窓生



第二期生卒業式
 −「山洲根津先生傳」−
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第二期生卒業式



根津先生晩年之筆跡(至誠如神)
 −「山洲根津先生傳」−
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根津先生晩年之筆跡(至誠如神)
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根津一写真集(2)
根津先生之銅像
 −「山洲根津先生傳」−

根津先生之銅像



根津先生之銅像陰文
 −「山洲根津先生傳」」−

根津先生之銅像陰文



ハスケル路假公社時代之先生(大正3年頃)
 −「山洲根津先生傳」−

ハスケル路假公社時代(大正3年頃)


桂墅里時代之先生(明治40年4月27日)
 −「山洲根津先生傳」−

桂墅里時代之先生(明治40年4月27日)


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心に残る人々 (1) 汪兆銘
汪兆銘を偲ぶ

中山優選集 (故師近友)より

 汪兆銘先生が名古屋の病院で六十余年の生涯を閉じたのは、たしか昭和十九年の秋であつた。戦後の虚脱した生活の中で、何も彼も散逸し、この尊敬すべき先輩の命日すら正確に記憶しないわたくしの身心の荒怠を、実に申しわけなく思う。

 「逝くものは斯くの如し」で、月日は水の如く流れ人の記憶も泡沫のようにはかなく消えてゆく。十年に近い、いわゆる支那事変時代の立役者として、蒋介石氏を主脳とする重慶政府に括抗して、日本との和平を主張する南京政府の主席として登場した時代の汪兆銘氏は、その政治的閲歴からいつても一代の立役者で、泥沼に踏みこんだ日本としては、支部事変を収拾する最後の期待をこの人にかくるよりほかに途はなかつた。それ故に、一国の元首としての形式的な尊敬は残すところなく払つたが、実質的には日本軍の占領行政を合法化する傀儡政権にすぎなかつた。その前の王克敏の北京政府や南京政府などの地方政権と違つて、国民党の元老として、蒋介石氏と肩をならべつつ、自分こそ中日提携を主張した孫文先生の衣鉢をつぐ正統派だという自任の下に、一世の風潮と戦つて、敢然和平の陣頭に立った汪氏の面目にかけても、これはたゆるところではない。全中国人の意志を抗日から和平に転換さすためには、日本が真実に侵略の意志のないことを客観的事実において立証せねばならぬ。そのためには、南京政府の傀儡性を抜本塞源的に変質して、真に中国人による、中国のための政府たるだけの、独立性を与えられなければならぬ。汪氏はかく主張した。さきに発せられた、非賠償、非併合の近衛声明の響きに、かく期待するに足るものがあり、影佐少将などを通じて密々に探ってみた日本側の最高当局の意嚮もそこにあることに、確信をもつたればこそ、汪氏の重慶脱出の大芝居となり、南京政府の樹立とまで発展したものが、さていよいよとなると事毎に食い違いばかりである。第一、東京政府そのものに真の統一がない。天皇陛下はもとより、近衛公はじめ重臣の意志がそこにあることは明白だが、軍部がいうことをきかぬ。その軍部がまた陸海軍にわかれている上に、陸軍そのものも、本部の意志が、現地へ徹底しかねる場合がすくなくない。外観は連戦連勝で、挙国一致の休制だが、その実神経系統は支離滅裂で、一箇の僚然たる国家意志として、対手から信頼さるるに足る中心がなかつた。

 世界最終戦論という戦争史観の上に立って、日中は争うべからず、日中は独立平等の基礎の上に提携すべしということを、満洲事変の体験から固い結論に到達した東亜連盟の理想は、一方では満洲国を日本の傀儡政権たらしめず、真実に民族協和の独立国として完成することであり、それと併行的に東亜聯盟の構想の上に立って、排日中国を親日中国に回転することである。排日的ならざる中国の出現そのものが、日本の最大の収穫であつて、その代り日本はもちろん非賠償、非併合でなければならない。「共同防衛、経済の共通、政治の独立」この三つが中国側に呼びかけるスローガンであつた。覇道的な西洋人にたいしてはある場合謀略もやむをえぬ場合がある。同志たるべき中国人にたいしては一切偽りをいつてはならぬ。「大を以て小に事うる」すなわち、力のあるものが、弱きものの前に謙遜になることによつて、支那事変の早期終結を図るべしというのが、その一党の主張であつた。

 わたくしは、その頃満洲の建国大学に籍をおきながら毎年一、二回中国の各地を巡って、同志の発見につとめていた。まじめな民族主義的な青年や有力な郷紳のかずかずを私が知りえたことは私の一生の収穫である。上海の長老格の陳深氏一党のことについて、わたしは他日くわしくのべるであろう。中国も日本も、政情が一変した今日、多くの人が刑死し、残存した人たちとも形の上ではつい疎遠を重ねているが、それらの人達との友情を通じて、私は肚の底から中国の文明と共に、典型的な中国人にある人の善さを信じている。そうして、その根源が王道的伝統、換言すればすなわち儒教的教養にあることを信じているわたくしとしては、中共の将来の傾向について、特殊の興味をもつて見まもっている。政治が文化を作るのでなく、むしろ一筋の文化的性格が、一時代の政治を規制するという見方に、私は立つているが故に、いつの日にか中共が功利的なマルクス主義から王道的なものへ変質する可能性を信じたい。

 われわれの二人の同志、南京総軍の板垣参謀長と、辻政信中佐がその頃の南京にいた。後で上海に三品隆以参謀がきた。東亜聯盟に熱心のあまり、自分が副会長であつた北京の新民会をおわれて南下してきた繆斌君も南京で一旗あげようとしている。繆君をこれほど真剣に発奮させたのは田村真作君をはじめ稲葉君やその他の若き諸君の献身的な行動が因を作つていた。辻参謀の依頼で私から汪首席に吹きこんでくれということである。後では立派な首席公館ができたが、南京政府成立早々の首席公館はある胡同の鉄門の洋館であつた。暗殺に備えてピストルをもつた護衛の兵が隅々にかまえていた。

 汪氏はその六十の齢から二十も若く見える大きな身体、白燭硫拘蕁⊇世蕕い手であつた。

 私は東亜聯盟の国民運動を中国の方から先鞭をつけて頂きたいと申し出た。恥ずかしながら日本の軍閥は頑迷で、政治家は無能で聯盟の主張に理解をもたない。しかしこの緑による以外に中国側の納得に訴えて、戦争終結に導く方法はあるまい、幸にして、日本は表面上中国の改治独立を尊重せざるをえぬことになつている。逆手のようだが、先生が敢然として先鞭をつけられたら、嫌々ながらも日本はこれに追随するほかあるまい、という趣旨を私は申し出た。汪首席は欣然としてそれを了承した。そうして前記三綱目の外に「文化溝通」の一項目を加えることを主張された。「大亜細亜主義則東亜聯盟」という揮毫を、石原将軍と辻氏と私に贈つてくれた。自国軍隊の軍規に厳粛な辻氏が、中国側にたいし実に謙遜で道義的であることが中国側には自然に通じていた。一佐官の分際で首席にお目にかかることは失礼にあたるといつて、あの激しい辻氏が、汪首席の招待などには進んで辞退していた。

 汪氏の愛弟子の林伯生宣伝部長が、中国東亜聯盟の事務局長にあたつた。林部長に頼まれて、ある日私は宣伝部や南京大学に「中日関係の過去、現在、未来」という講演をした。参事官の鐘任寿氏が自分のもののような熱弁でそれを通訳した。宣伝部での時は、しまい頃には、一句毎に床板を踏み鳴らすものがでてきた。重慶側からの転向者で、日本の真意に疑問を抱く青壮年たちであるから反感を買つたのかと思ったが、あとでそれは共鳴の意味であると聞かされた。南京、上海、広東で一斉に東亜聯盟の運動が開始されて、それは一時占領地域一般を風靡するかに思われた。もちろん南京総軍もそれに呼応した。しかし、それは川の表面で、その実軍部を中心とする日本政治界の底流は逆に流れていた。東条陸相の周囲には対支権益論者が取り巻いていた。石原と東条の対立は深刻を増し、石原氏等の少数派に対する政府側の圧迫は漸次鋒矛をあらわしてきた。ちようど国会開会中であつたが、日本側の聯盟の代議士木村武雄君などの斡旋で、私の報告を聞こうという会が日比谷の松本楼で開かれ、百人以上の少壮代議士が集まつた。その大多数が即座に共鳴し、それから内地の各地に聯盟の支部が結成された。この形勢に驚いた東条氏等は、日本内地における東亜聯盟の運動を「主権を晦冥ならしむる超国家主義として法令をもつて禁止することになつた。十六年の冬か十七年の正月頃であつたと思う。聯盟に関する閣議が明日開かれるということを木村君からきいて、私は夜の十二時すぎ荻窪の荻外荘に近衛公を訪れた。「私は東亞聯盟は近衛声明の精神の具体化だと思うんですが−」ということで、明日の閣議で、この弾圧の決議に反対して貰いたいと頼んだ。公爵はそれを肯定したが、しかしあくる日の結果にそれは現われてはこなかつた。これから実に奇妙な影響が起ってきた。東亜聯盟は日中共通の国際運動である。その片棒の日本側で禁止されたのでは、事変収拾のため国際運動としては片足もぎとられたも同然である。ましてこの時の「超国家主義」の意味するものは、戦後マッカーサーが追放の名目にした「極端」なという意味の国家主義ではない。その反対である。つまり「平等すぎる」のがいけないというのである。

 これでは汪氏を首席とする中国の東亜聯盟運動に水をかけた上に泥を塗ったようなものであつた。しかし汪氏はさすがに貫禄があつた。誠に相すまぬとお詫びする私に対して、一言の愚痴らしいことはいわなかった。これは正しい運動だから中国はつづけてやりますといつた。事実運動はその後もつづけられぬのではなかつたが、日本側で公式に否定されたこの運動は、中国の畑にだけ成長する筈はなかつた。ただ中国の社会は敏感である。いわゆる「微より大なるはなし」とか「置郵より速なり」とかいう言葉がある通り、東亜聯盟が日本で圧迫されるほど、それほどこの運動は真面目だという信頼感が、半面中国の重慶側にも伝わつたように思われる。敗戦色の濃い昭和二十年のはじめ、私は南京に赴くと、相前後して三つの線を通じて重慶側から和平の打診がきて、私は一時東京に帰つて奔走したこともある。その一つはいわゆる謬斌事件の後を引きついだものであつた。あの頃南京を通るとき、私は首都飯店に泊つた。門前の人力車夫がよく覚えてくれて、十二、三人も脱兎のように私をのせようと争つた。汚い車で一国の首席を訪問する市井人の私を珍重がつてくれた。

 同志的信頼は、運動の不成功にかかわらず、最後までわれわれの間につながつていた。汪氏が一国の元首の資格で正式に天皇陛下を訪問した時、郊外に浪居している私をわざわざ中国大使館に、人目につかぬように呼んでくれた。その後満洲にみえたときも、特別に、松方三郎氏と私の二人だけで一夕の食卓を共にした。「梅花素心有り、雪月一色を同じうす、照徹す長夜中、遂に天下をして白からしめん」という汪氏晩年の沈痛な作がある。汪氏は詩人でもあつた。それが現実政治家としての弱点といえぬことはないにせよ、大局を見る目は、それが故にこそ高かつた。汪氏は最後まで蒋介石氏をゆるさなかつたように思われたが、私がここでかくいうのは、蒋氏にたいする非難を毒末も意味しない。蒋氏のとつた態度も無理はなかつた。支那事変を収拾できなかつた点において非難さるべきは日本だけである。             (昭和二八年一一月)


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《馬場》
 中山優先生ほど中国人に慕われた日本人はおるまい。先生満州国の南京公使として赴くや中国人は歓呼して迎えた。だが、「先生来るや半年遅し」と言う声もあった。
 
その先生の書く汪兆銘の姿、南京政府の立場、無様な日本の態度。誰が書くよりも実態そのものだ。

青年諸君よ、中山先生の言を忘れる事なかれ。この言を当時の日中間の歴史の基本として判断すべし。

そして日本に必要なものは何だったのか、中国に必要なものは何だったのか知るべきである。


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