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命を捨てでも守らねばならぬものがある
 
陸軍中野学校卒業生たちが歌い続ける「三々壮途の歌」

歴史というものをどう見るかはその人間の人生観による。従って、歴史には色んな見方があるのは当然である。併し乍ら、それは現代日本で言われる思想信条の自由とは全く違う。何故なら歴史は敬愛無きところに真実は生まれないからである。

「中野学校秘密戦」に掲載された「三々壮途の歌」を読んで、ここに中野学校精神がよく顕れていると感じた。彼等にあるものは国體への確信と祖国への忠義と先人への敬愛、そして無私の心である。読む者もそけがなけれその精神は理解出来ない。

現代は生命の尊重を根本とする。だがそれは建前である。真実ではない。生命とは何かという前提がないのである。従って現代の価値観で中野学校精神を理解することは出来ない。にも拘わらず私は現代の若者たちも求めれば必ず理解出来ると信じている。言葉は単なる意思の伝達手段ではない。日本では言霊という。日本語には魂がある。日本の魂がある。その魂が日本人の心を共鳴させる。

一切を捨て国に殉じた陸軍中野学校の生徒たち。正に日本の精華である。生命以上の価値観が真の生命を生む。歴史は敬愛と無私の心がなければその真実は明らかにならない。そういう崇高なものをこの「三三壮途の歌」について書かれた文章から感じた。必ずその精神を正しく受け止める方がおられると信じ掲載する次第である。






 ◎秘密戦士のこころの歌は「三々壮途の歌」



1 秘密戦士の歌はこうしてできた
 この歌の生れたいきさつについて、中野の同志・学生(三丙)で作詞者である柳田慔(りっしん偏に莫)氏の登場を願うことにしよう。

  事実が先で歌詞はあと

  昭和十七年、私は三丙を卒業し、中野学校学生隊勤務を命ぜられました。四戌南方班主任であった清水中尉が途中で南方に赴任されたのでその後任となり、吉永 中尉、伊勢中尉、国吉少尉の方々と共に勤務しました。その折集会所で狠飜邱参梁塰章澄蹐鬚靴个靴佇垢ました。もちろん私も切に望んでいました。
  時至り四戌は卒業、次の五戌入校までの間に丙の主任のお供をして北満(中国・東北部)国境の視察を命ぜられました。私はこの出張期間中に作詞することを心 に銘じていました。作詞にはなんらの素養もなかったのですが、ただ私の胸に去来したのは、どうすれば中野精神をたんたんと表現できるかということでした。
 新京から牡丹江(ぼたんこう)に向う車中で詞を組立て、牡丹江よりの帰路は、デッキに腰をおろして走り去る果てしなき満州の嚝野を眺めながら、自己流の曲をつけて大声で歌いながら詞を修正しました。
 かつて私共の卒業の夜、別れの会合に自習室に集って談じ、歌ったことがありましたが、この席で同期の小村兄(南方班)が歌った曲が、あとで知ったことですが「蒙古放浪歌」というものでした。
 この歌のメロディーは私の心深く刻まれ、その後自己流に歌っていました。満州の嚝野を眺めながら自己流の曲をつけた、というのはこのことです。出張から帰り清書した詞を吉原教官に呈し、存分のご添削を乞いました。
  まもなく「添削の適否は不明なるも詞の精神はそこなわないように一部添削した」とのお言葉をそえて返却されました。その後、五戌学生の入校などのため歌の ことは全く忘れていましたが五戌学生卒業間近かのある日の夜間、演習を終ってから始めて五戌北方班の諸君の前で歌ったのがこの「三々壮途の歌」です。また 五戌卒業時、二俣一期生とも合唱したようにおぼえています。
 それ以来この歌は中野の同志の間で広く歌われるようになり、戦後も校友会の席上など で愛唱されています。某日、永田健次兄(五戌)来宅の折、談たまたま「三々の歌」におよび、妻が二十数年来保存していた原稿を出してきたのを永田兄が持参 のカメラで撮影し、その写真が中野校友会誌に掲載されたこともあります。かさねがさね身にあまる光栄と思っております。


2.三々壮途の歌とは
 「陸軍中野学校」とは、中野という学校所在地の地名をつけたもので、これじたい学校の内容が全くわからないように秘匿したものである。この上さらに中野学校を「東部第三十三部隊」と呼んで秘密に慎重を期したが、「三々」とはこの東部第三十三部隊の略名である。
  また「三々壮途の歌」として「校歌」としなかったのは、正式に学校の上司から命ぜられて作ったものではなく、いわば学校の卒業生である職員(学生隊の主 任)が盛りあがる学生の気持に応えて、自主的に、自由に作ったものだからである。事実、一般の軍歌が勇壮、豪壮…で、一般の校歌がいわゆる優等生の歌…で あるのにくらべて、この歌には「人生」とか「感激」とか「母と別れて」というように、中野学校ならではの独特のムードやこころが自由に歌い込まれている。
  だからこの歌は、上からの押しつけや、きれいごとの発想に基づいてつくられた歌ではさらさらなく、中野という有機体のなかに充満していたものが歌となって 表現されたもので、前記のように「事実」が先で「歌」が後なのだ。そして作詞者も「まこと」のこころをもって「まこと」の中野精神を表現したものである。 その「まこと」の中には「人間としての自覚」を原点として「全体と個」の関係を把握し、それから自分の位置づけを「父母兄弟姉妹の中の自分」「中野の同志 の中の自分」「日本人の中の自分」「アジア民族の中の自分」「世界人類の中の自分」「宇宙の中の自分」というように、巨視的な観点から自分を見つめてい る。
 このような意味で、この歌詞には中野精神が硬軟自在に織り込まれていて、中野の同志にはピッタリなのだ。戦前、戦中はもちろん、戦後数十年を経た今日も、中野二世にまで愛唱されているゆえんである。


3.曲譜に歌詞を添えて
 この章の終りに中野学校の魂の歌「三々壮途の歌」の曲譜と、それに添えて歌詞をかかげておこう。
 (※ブログ管理者:繰り上げてここに掲載します。)

  一、赤き心で  断じてなせば
    骨も砕けよ  肉また散れよ
    君に捧げて  ほほえむ男児
  二、いらぬは手柄  浮雲の如き
    意気に感ぜし  人生こそは
    神よ与えよ  万難我に
  三、大義を求めて 感激の日々
    仁を求めて ああ仁得たり
    アジアの求むは この俺たちだ
  四、丈(たけ)なす墓も 小鳥のすみか
    砕けし骨を モンスーンにのせて
    散るや世界の すべてが墓だ
  五、丈夫生くるに 念忠ありて
    闇夜を照らす 巨燈(おおび)を得れば
    更に要せじ 他念のあるを
  六、南船北馬 今我は征(ゆ)く
    母と別れて 海こえて行く
    同志よ兄等と いつまた会わん
    同志よ兄等と いつまた会わん


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3 歌詞の意味を考える


──赤き心で断じてなせば……(一節)
 この節の大意−祖国に誠心(まごころ)を傾け、やがて来るであらう困難の中で命果てるとも、それこそ男児の本懐ではないか(柳田 慔)。
 狎屬心″とは、誠の心である。いわば人間の普遍的な真理である。明治十五年一月、陸海軍人に賜った勅諭の忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五ケ条は軍人の精神であって、一つの誠心はまた五ケ条の精神でもある。
  犒に捧げて″の君とは、表現としてはもちろん国民の象徴たる天皇のことであるが、本質的には「君国」すなわち「日本国」に通ずる。なぜなら、日本は単一 民族・単一言語の国であって、建国以来国民一人一人の生命と国家生命とが一体となっている。いわゆる「運命共同体」であり、「君民一体の国家」であり、 「国の元首は天皇」であるからにはかならない。



──いらぬは手柄浮雲(ふうん)の如き……(二節)

 この節の大意──世の毀誉褒貶一顧に値しない。天業恢弘の使途たるの使命感にこそ命をか
けよ。だから神よ、もっと試練を与え給え(同前)。
 明治三十八年十二月二十九日、大山満州軍総司令官の卒いる部隊は、全日本国民の歓呼の声に迎えられて新橋駅頭に凱旋した。その翌日、くたびれた背広に外套姿の一紳士が唯一人、鞄一つ持って新橋駅に下車し、ただ一人の和服姿の男に迎えられていずこともなく姿を消した。
 この人こそ日露戦争中、欧州に在って対露政治大謀略を展開し、戦争を勝利に導いた蔭の大立役者・明石元二郎大佐であった。そしてこれを迎えた男は、満州軍総参謀長・児玉源太郎大将であった。
 明石大佐こそ、爐い蕕未麓衒繊帖帖蹐亮汰者であったといえる。その「復命書」は、苦難の偉功であったにもかかわらず、陸軍参謀本部の秘密文庫に蔵されたまま、一語といえども公けにされていない。
狄世萢燭┐菲難我に″ということは、任務完遂の至上命令のためには、たとい俘虜の辱しめを受けたり、永劫に汚名を着せられても、あえてこれを甘受してあくまでも生きのび、万難を克服して任務を完遂する、ということでもある。
  中野学校二俣分校の第一期生・小野田寛郎少尉は、フィリッピンのルパング島における「残置諜者」としての至上命令を受けて任地に就き、その後、大東亜戦争 の終戦を知らず、否、終戦を信ぜず、また日本人による救出工作隊の呼びかけに対しても、これを敵側の謀略として断じて受けつけなかった。こうしてルバング 島のジャングルの中で、孤独と困窮に戦いながら万難を克服し、実に戦後三十年間、任務完遂をめざして生き抜いたのだ。ここに強靱な精神力を備えた秘密戦士 としての力量と「諜者は死なず」の真髄を見ることができるのではないか。

──大義を求めて感激の日々……(三節)
 この節の大意──大義を求め、仁を願ってきた我々なれば、アジアの友が真の友として求めるのは、この俺たちであるにちがいない(同前)。
 われわれは、世界の人類がその一分に応じて自由に幸せに生きる世界をつくるという「天業恢弘(かいこう)」の使徒として、アジアの植民地を白人の手より解放し、各民族をして各々そのところを得せむる使命を有している。
 そのためには「仁徳」を身につける必要がある。そして仁を得る境地にまで心を高めるためには、日夜、大義を求めて精進修行するほかない。
 アジアの求めているのは、このような天業恢弘の使徒──すなわち俺たちであるのだ。
 「仁」とは、普遍の徳であり、世界人類を抱擁し、愛する、大らかな徳。「大義」とは、命を捨てて、祖国永遠の生命に生きる至高の道。
 だから大義の道を実践することが、すなわち普遍の徳─仁に合致するゆえんなのだ。
 現にわれら中野の同志たちは、アジアの被抑圧民族を解放するために、アジアの戦士の心の友として、ビルマやインドネシアの独立運動に、インドの民族解放運動に、名も知れず一身を捧げ、その血潮のなかに咲いた花こそ、いま見るようなインド、ビルマ等の独立国ではないか!

丈(たけ)なす墓も小鳥のすみか‥‥‥(四節)
 この節の大意―人知れず、いずこで命果てようとも世界のすべてがわれらの墓ではないか(同前)。
 モンスーンはアジアの季節風。
 平時、戦時を問わず、空間的には異民族の間に伍して、世界のすべての場所に定着する。時間的には、極言すれば自分の一生だけでなく、子孫の代までも継承活動してその地に骨を埋める。これぞ秘密戦士の宿命ではないか。
  日本陸軍々人が異国で情報活動を行うにあたっては、その身分は表向き大公使館付武官としてであれ、駐在武官としてであれ、外交官としてであれ、そのすべて はれっきとした日本国主権の保護のもとにあっての仕事であって、まかり間違っても国外追放程度でことは済み、任期にしても二〜三年で内地に帰還するのを例 とした。
 これとは異なり、日本国の主権外にあって、一民間日本人として情報活動を行い、異国に定着して骨をうずめる秘密戦士を養成するために陸軍中野学校が創立されたのだ。だからわれら中野の戦士たちは、世界のすべてをわれらの墓と観じて、秘密戦に身を投げ出してゆくのだ。
 事実、中野の秘密戦士たちは、ソ連、インド、ドイツ、ポルトガル、ルーマニア、スペイン、アフガニスタン、メキシコ、ブラジル、ジャワ、タイ、その他、世界のいたるところにその大きな足跡と功績の刻印を残しているのだ!。


丈夫(ますらお)生くるに念忠ありて……(五節)

 この節の大意─我々は祖国を愛し、神命だけを考えていれば良いでは甘いか。このほか一体何がいるのか(同前)。
 巨燈とは、神命−神の教え。
 忠とは、まめやか、まごころ、まこと、私なきこと、である。
 したがって大局的見地から使命達成の固い信念がある場合には、一般軍隊向けの戦陣訓の「生きて虜囚の辱しめを受けず」の教えにもとらわれる必要はない。われらは一般的な単純な武力戦の戦士ではないのだ。
  超高度な世界において、超高度で複雑な使命を有する秘密戦士なのだ。だからわれらは任務完遂をするまでは一般常識の世界におけるあらゆる辱しめでさえすべ てこれらを甘受し、あくまで「生きのびる」ことこそ使命であり、忠であると信ずる。むろん生きのびるというのは単に肉体的な命が惜しいのではさらさらな い。なぜなら、自己中心的に考えるならば死んであらゆる苦難から解放されて絶対の自由を得た方が生きて苦難に明け暮れするよりどれほど楽であるかわからな い。そうではないのだ。生死そのものより絶対優先すべきは使命完遂なのだ。余念は不要である。

南船北馬今我は征く‥‥‥(六節)
 この節の大意─中野の同志たちはいま、東に西に南に北に祖国を離れ、母と別れ、同志と別れて海こえてゆくのであるが、われらはいつの日か再び会うことがあるだろうか。
 (同前)
 縁によって運命共同体の同志を得て、ともに中野で学び、ともに業を卒えて今やお互いに別れて同じ運命をめざしてゆく。切っても断つことができない血縁によって運命づけられている血族、その中で母にさえも任務や任地を明らかにせず、心で別れをつげて海をこえてゆく。
 秘密戦士としての超人間的な使命感、人間としての母への情愛、万感を胸に秘めつつ今、我は征(ゆ)くのだ。悠久の大義に生きるべく。
  大東亜戦争中、某島において某軍司令官と共に切腹玉砕した某参謀長は剛毅をもって自他共に許す勇猛な将軍であった。その将軍が毎晩のようにうなされて爐 母さん!″と叫ばれたそうである。死に臨み母を慕う心、母に感謝する心、別れを惜しむ心、人間の真情である。これを女々しいというなかれ。母を愛し、肉親 を愛し、祖国を愛し、同胞永遠の幸せを願う。そのために祖国にわが命捧げて悔ゆるところがないのではないだろうか。

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コメント
失礼します。
私の父は昭和通商にハノイの支店長でした。
その父が平成13年に他界しました。
後数日の余命と云われた時に正にこの さんさん別れの歌を初めから最後まで歌い数日後亡くなりました。91歳でした。
中野学校・昭和通商に気骨を感じます。
                 原田 
| 原田 | 2016/05/27 1:42 AM |
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