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大嘗祭と国民   (柳田國男著)


定本柳田國男集 第31巻   (373頁〜375頁)

 

〔原文〕

 

 

   大嘗祭と國民


−373頁−

 

 國が大きくなるとともに、この大嘗の御祭がだんだんと成長して來たことは、何人の眼にも極めて明らかに感ぜられる。例へば上代の朝廷においては、酎造齢翼砲篭欧蕕近き御縣の穂を抜いて奉られたことであらうのに、それが大化の新政の世に入ると、早くも國郡卜定の制に改まつてゐる。卽ち今日の齋田納穀の古例であつて、後に日本を東南と西北との二方面に區劃して、悠紀、主基の二宮に配せられたのであるが、文物の最も整備した御時にも、なほ輸送等の關係があつて、奉仕の任務を遠く百里の外に及ぼし得なかつたのである。明治四年の大嘗祭は、遷都僅かに終り、維新の大業の漸く緒についた際で、また完全なる典儀を設定せられるに至らなかったけれども、始めて甲斐、安房の兩國に齋田を點定なされたことは、實に復古以上の躍進であつた。獨りその地方の住民のみといはず、いやしくも歴史を學ぶ者の古今を引比べて、均しく感激して止まざる所であつた。然るに大帝御一代の偉績として、郡縣の制は夙に立ち、命式はすべて備はつて、龜卜は自在に四國九州の果てまでを指定し得るやうになつたのである。
 それのみならず前代兩國の國司は、公役として専ら諸般の鋪設に任じ、數々の獻物を以て御祭と後の宴とを豐樂ならしめたのであつたが、新しい御代に入つては、全國各地進んでその榮譽の一部に參與せんことを競うて止まぬやうになつたのである。いはゆる庭積机代物は明治以降の新制であると承るが、その三十二器の國産の中には、弘く海山の収穫をも網羅し、更にまた臺彎の文旦、小笠原島のバナヽの如き、曾て大昔の農業の夢にも想像せざりしもの、もしくは全く忘れてしまつてゐたものまでを包含してゐる。しかもこの進展は至つて自然であつて、少しでも國民の理

 

−374頁−
 

想の暖襪函調和しない點はないのである。
 今一つの著るしい成長は式と國民生活の關係である。古い個人の記録類には、先ごろ京都では大嘗祭が行はれたさうなといふやうな記事が多い。交通不便の止むなき結果ではあるが、しばしば後に知りまたは知らずして過ぎる者も多かつたのである。今囘はそれがどうであるか。如何なる山の隅にも離れ小島にも、兼てその期日と時刻とを聞知って、遠くその夜の叩垢靴じ羣廚慮景を、胸にゑがかざる者は一人もない。以前は單に京近くの大社のみに、奉告の御使を發せられて、式の完成を祈請せられたのであるが、この度は全國數萬の鎮守に、それぞれの祭祀が營まれ、先づ住民をして同心にこの日の御祭に奉仕せしめられた功績を謝したヽへられるのである。この時勢の大なる進化を比べて見たら、どんな堅苦しい尚古派でも、單なる舊制の遵由と、活きて成長する國の式との、差別を認めずにはゐられないはずである。
 しかも我々が更に心を動かす一事は、これほどよく成長して常に時と適應せんとする儀式の奥底に、なほ萬古を貫通した不變の約束が、幾筋ともなく認められることである。その中の最も重要なる一つは、至尊陛下が御自親ら執行はせたまふほどの國の大祭に、村で繰返して來た秋ごとの祭禮と、大小の程度には固より格別の相違があるが、全く方式を同じうする點の存することである。近ごろの改定祭式では幾分かこの類似を減じたかも知れぬが、これを百姓の古風に任せて置くと、期せずして朝儀の御跡を逐うてゐるのであつた。例へば私が禿艱僂琉芯で逢うた祭禮には、明かに酎造旅堽があつた。二親の揃うた穢のない男女、各々頭の上に御飯端魑鳥の類を載せて、社務所から殿前まで續いて進むところに供御の豐かさを表はしてゐる。それから小忌衣の袖に染出す花の枝や、冠にかざす日蔭蔓の如きも、僅かづつ形をかへて常に祭に仕ふる者の最小限度の作法であつた。物忌の考へが次第に薄れて、無心に辰料阿暴个襪海箸鮨佑眈覆澆婿節になつても、外觀に現はれたるこの胆擦覆覽章だけは、どうしても除き去ることを得なかったのである。これを優美ともまた高尚とも感ずることは、いはば東方の人種のみに、附いて離れぬ一つの氣

 

−375頁−


質であつて、それが轉じては各種の技藝、日常習慣の上にも、まだ色々と殘ってゐることを、かういふ機會に始めて心付く者は多からうと思ふ。
夜の御祭には本來説いてはならぬ部分があるのかも知れぬ。私なども一たび前御代の端阿砲與かった者であるが、今考へると唯きらきらと光るものが、眼の前を過ぎたといふ感じである。しかし言辭をもつて傅へ得ざる點は、人は感覚によつてこれを永世にしようとしてゐた。さうして今日の奉仕者の多數は、遠く丹茲粒阿砲△弔董⊇駱討僕海弔道呂瓩噸椶个Δ箸い嫂佑任△襦H狹をしておのづから會得せしむべき新なる學問の發達することも、また恐らくはこの時代の要求であらうと思ふ。
古い儀式の中では、北野に近い齋場の御庫から禁門の口まで稻實を運ぶ朝のうちの行列が、たゞ一つ平人に開放せられたる短であつた。その列の先頭には悠紀主基の國司が立ち、また標の山といふ作り物を擔うて、それを御殿の前の庭に樹てたさうである。何時からはじまつてその目途が何れにあつたかを、我々に語つてくれる人も見付からぬうちに、もう今の御式の中から省かれてしまつた。ところが形態のこれと近い鉾とか柱とかいふものは、往々にして民間の祭にもまだ用ゐられる。古式の研究はむしろかういふ方面から、今少しく進めて往つてよいものではないかと思つてゐる。

 

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